コラム

生きることの本質

4.「生きることの本質」4回連載 (最終回)

2012年10月06日

4ヒトが生き残るために


①生物が生存できる地球に
庭の朝顔は種から蔓を伸ばして葉を茂らせ、ネットの上に行きつくと、協力しあうかのように蔓が絡みあって束になって空間に伸び、次の場を探っている。植物にも意志があるように見える。
盆過ぎに淡い赤い花が1輪咲き、少しずつ増え、1週間遅れて水色の花が加わり、今朝数えると赤が30、青が120ほど咲いていたが、毎日それを見て元気を貰っている。
植物から貰っているのは元気だけではなく、ヒトを含むすべての動物は、植物が作った酸素と植物の命、食物連鎖で植物から転換された動物の命を貰って生きている。
人類の活動による温暖化で、多くの生物を絶滅させているが、人類は生活様式を変えてでも温暖化を阻止して、生物が永く生存できる環境を維持することが求められている。



②優しさが自らを救う
「青い水の星」地球は、果てしない宇宙でも他に見つからない、かけがえのない生命を育む星で、そこに住む生物と共存できるか否かが人類に問われた命題であり、ヒトを含むすべての生物に対して「優しさ」を持って行動できるか否かで、自らを救えるかどうかが決まってくると思われる。
教会の会員が、サザエを壺焼きにする時に「ごめんなさいね」と声をかけたそうである。
サザエに対するその声掛けを知って、その方の人柄がさらに奥深いものに感じられ、そのような人が存在する人類は、まだ生き残れる可能性を残しているのではないか、と思われた。
尚、私は、人を見るのに、「人柄」を最重要な尺度にしている。



③子どもの感性と優しさを伸ばすのが教育の原点
最後に、朝日新聞の「ひととき」欄の寄稿文の一つを紹介してこのテーマでの話を終えたい。

「娘のあいさつに学ぶ」寄稿:座間市 AYさん(主婦30才)
まだ赤ちゃんっぽさの残るぷくぷくとした手を合わせ「いただきます」「ごちそうさま」と丁寧にあいさつする2歳半の娘。 彼女がこの言葉を覚えたときは、料理を作った自分へのご褒美のようでうれしかった。 私への言葉だとずっと思っていた。
で もある日、食事の最初と最後だけあいさつをしていた娘が、一口食べるたびに「ブロッコリー、いただきます」「おさかな、いただきます」と言い、一品目を食 べ終わるたびに「ブロッコリー、ごちそうさまでした!」「おさかな、ごちそうさまでした!」「ごはん、ごちそうさまでした!」と手を合わせて言ったのだ。
その姿を見た私は、はっとした。「いただきます」「ごちそうさま」のあいさつは、料理を作った人だけに向けられるものではない。 毎月お米や野菜を送って くれる実家の両親や、食材として口に運ばれるまでにかかわったすべての人、さらに食材そのものへの感謝を表すものなのだ。

(以下略)


福島第一原発の事故や原子力発電に対する様々な場面において、高い教育を受け、国をリードすべき立場の政界、官界、経済界、電力会社等の上層部の人間が、次々に、際限もなく、本質から逸脱した恥ずべき言動を弄したのと対照的な、幼い子どもの感性と優しさに救われる。

子ども達の心を真っすぐに伸ばすことこそ、教育の原点であり、社会に求められていると思う。

(終わり)

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3.「生きることの本質」4回連載 (第3回)

2012年09月28日

3私にとっての教会、生き物
①教会の存在
私が、50才以後の人生を乗り越えてこられたのは、教会を知って、通う内に心がやすらぎ、「自分さえよければいい」という、それまでの生き方から少し変わることができたお蔭だと思う。

あ る日の教会学校では、映画「汚れなき悪戯」が題材で、スペインの片田舎で、戦争で破壊された修道院を再建する修道士たちの許に捨てられた赤ちゃんがマルセ リーノと名付けられて賢い少年に成長する中で、農作業中の修道士が村人から「敵が攻めてきたら畑が荒らされ、収穫できず、殺されるかも知れないのに、何故 そんなに懸命に仕事をするのか」と訊かれた時、「明日、どうなろうと、今日1日を大切にして生きたい」と答える場面を話されたが、まだ見ていないその映画 の情景が鮮明に浮かび、「自分も、少しでも、そのように生きたい」と強く思った。


②動物にも心がある
3・11の津波の凄まじさは思わず息をのむほどで、亡くなった方、それを助けられなかった人の無念はどれほどだっただろうか。 津波の場面を見るたびにそのことを考えてしまう。
最近、ふと、津波に遭った動物はどうしたろうか。原発の放射能を浴びた鳥や昆虫もいただろう。その影響で苦しんでいるかも知れない、と考えるようになった。
そ のキッカケは「ダンゴムシに心があるのか」という本で、学者として様々な実験と考察を繰返した上で出された「ダンゴムシには心がある」という結論に、本当 だろうかと思い、家の周囲に沢山いるダンゴムシの、著者が心があるとする根拠としての行動を何度も観察している内に、彼らに「心」があるというのは本当だ ろう、と思えるようになった。 それは、衝撃だった。
そして、ダンゴムシに心があるなら、哺乳類、爬虫類、昆虫はもとより、ミミズにも心があるのではないか、と思っている。 

昨 年秋、庭にカマキリの雄と雌が現れるようになったが、ある寒い日から姿が見えなくなり、少し気になって探している内に、朝顔のネットに泡状の卵(卵鞘)が 産みつけられていたのを見た時に、実に唐突に、30年前の鮮烈な光景を思い出した。それは、カマキリの雌が交尾直後に、前脚の鎌の一振りで雄の頸を刎ね て、まだ生きている頭と胴体を食べてしまった一部始終である。
あの時は、雌カマキリを、なんて酷い奴だと思ったが、今はその光景が納得できる。
「本能」というより、あの雄カマキリに心があったから、自ら命を託したのではないか、今度の雄も、やはり、子孫のために雌に命を預けたに違いない、と確信した。


③魚も痛みを感じている
「魚は痛みを感じるか」という本を読んだ時は、思わず、「アッ」と声が出かかった。
私は小さい時から釣りや海に潜って魚を突くことが好きで、夏休みは毎日海に通っていた。
仕事で魚を網に追い込んで大量に殺すことに何の迷いも持たなかったが、あの魚の1尾、1尾が、加えられた危害に痛みを感じ、怖れをも感じているという事実は「ダンゴムシ」以上の衝撃だった。
以来、養殖魚は海を知らずに生簀で一生を終えるが、それでは可哀そうではないか・・・とか、
海の活力を取り戻し、魚介類は海で自由に生きた後に苦しまない方法で獲り、感謝して食べるのが、モノ言わぬ魚たちへの礼儀ではないか、などと考えるようになった。

(続く)

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2.「生きることの本質」4回連載 (第2回)

2012年09月22日

2ヒトの思考様式
このように、ヒトには、弱く、愚かな面と、強く、気高い面が共存している。
魚のように海を渡り、鳥のように空を飛びたいと願って作り出した船や航空機も、人類を救う筈の核エネルギーも、人を大量に殺す武器として利用されてしまった。科学の進歩は必ずしも人類を幸せにするとは限らず、ヒトが幸せになれるかどうかは、心のあり方で決まる。

①「沈黙」の神
切支丹弾圧の江戸時代の、神をテーマにした、遠藤周作の「沈黙」に、主人公のポルトガル人司祭ロドリゴに棄教を迫る長崎奉行に、司祭が棄教を拒んだために3人の信徒が海に突き落とされる場面がある。司祭が神に助けを求めて祈るが、神は沈黙を守り続け、3人は波間に消える。
尚 も続く信徒への拷問に耐えられなくなった司祭は、信徒の命乞いをして踏み絵を踏むこと、即ち信仰を捨てる決心をする。多くの信徒に踏まれてすり減った踏み 絵の痩せたイエスの顔を見た時、その眼が「踏むがよい、お前たちに踏まれるために私は存在しているのだから」と語りかける。
この場面は読む人によって解釈が異なるようであるが、私は、その人の心が救われるなら、神に対する見方や聖書の解釈が異なっても、それでよいのではないか、と考えている。



②聖書と科学
聖書の創世紀1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にか たどって創造された」に続く「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ」という記述には「人類は世の 頂点にあって地球や生物を自由にできる」という、当時の世界観が表現されているが、現代のヒトの思考様式は、それと殆んど変わっていないようである。
一方、科学における、進化論は聖書のその箇所を否定しており、最新の遺伝子解析からの『生物はみな祖先を同じにする兄弟』であるという事実も、聖書の前記記述と相反している。



③人類への警鐘
今、人口爆発と自然破壊が恐ろしい程の勢いで急速に進んでいるが、そのような状況は「繁栄した生物が破滅する時に見られる終末的な姿である」という指摘がある。
立花 隆は、著書『エコロジー的思考のすすめ』で「人類は進歩と繁栄を謳歌しながら、滅亡の縁に向かって行進しつつある。・・・あるいは、まだ、望みが残されているのかもしれない。
もし望みがあるとして、その唯一の手がかりは、人類がこれまで金科玉条としてきた思考様式
の変革にある。生態学は、人類に精神的な革命を要求している。価値体系の転換を要求している。この革命を通過することなしに、人類の未来はない。
」と警鐘を鳴らしている。

星野道夫は、アラスカに住み、移動するカリブーの気が遠くなるほどの長い群や、寒風に耐えて花を咲かせるワスレナグサ:Forget  me  not!などの生物を見つめ続けて、壮大な自然の中の生命の愛しさを、息をのむような写真と珠玉の文に遺して逝った。その本の中に次の1節がある。
「脆さの中で私たちは生きているということ、言いかえれば、ある限界の中で人間は生かされているのだということを、ともすると忘れがちのような気がします」 彼は、生命というものが、実に脆いもので、だから、どんな生命も大切にしなければならないという、生きることの本質と、人類は、生かされているということを教えてくれた真の伝道者だったと、思えてならない。

(続く)

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1.「生きることの本質」4回連載 (第1回)

2012年09月22日

1 歴史の通過点で

①コーカソイドの専横
イエ スキリスト誕生から現在までの2千年は、コーカソイド:ヨーロッパ系白人の諸国が、キリスト教と、一早く手に入れた武力を背景に世界に君臨し、モンゴロイ ド:黄色人種やネグロイド:黒人の土地を奪い、搾取し、奴隷で使う等の専横を続けてきた歴史であり、今は、「グローバル化」という、先進国の都合による経 済戦争を進めているために、後発国や他宗教を信じる民族との間で格差が広がり、不信や憎悪の連鎖が続いている。
日本では、江戸末期に黒船が現れ、 欧米列強の侵略を怖れ、幕府の周章狼狽ぶりを見た長州と薩摩が手を結び、クーデターで幕府を倒して近代化を進め、国力増強に不可欠な資源を求めて大陸に進 出して列強と衝突して第2次大戦が始まり、その終わりは、市街地無差別空襲、米軍による沖縄侵攻、広島と長崎で21万人余を殺した原爆による止めで、この 世に次々と地獄が繰り広げられた。


②空襲・原爆・命の継承
私の満2歳の誕生日直前の、1945年3月10日の東京大空襲は、下町一帯を容赦なく焼き尽した。逃げ場を失った無数の焼け焦げた遺体が、折り重なって隅田川を漂った。
この時、埼玉県から牛に荷車を引かせて1昼夜かけて迎えに来てくれた祖父のお陰で、間一髪で、母と5歳の兄と私がごった返す東京を抜け出すことができた。 
私はこれ以外に、海の遊びや潜水の仕事で、あわやのピンチを紙一重で逃れたことが何度かあるが、助かったのは、運命、又は、Something Great:何か偉大なもの、の支配によると思っている。      
東 京から遙か西の下関では6月29日と7月2日の大空襲で市内全域が焼け野原になり、8月9日の長崎原爆は、当日の小倉上空の天候悪化で急遽変更されたもの で、小倉に投下されたら下関も被害を免れず、それらの被災で当地に居たカミサンの母親が死んだら・・・。或いは、激戦の中国戦線に加わっていた父親が死ん でいたら、カミサンは生まれていない。
私か、カミサンのどちらかが居なかったら、私達の子どもや孫は存在せず、私達の両親、その親、その祖先が、一人も途切れることなく続いたお蔭で、命が繋がっていることに気付かされる。


③アウシュビッツの奇跡
ポーランド南部のアウシュビッツで、ホロコーストを奇跡的に生き延びて「夜と霧」を書いた精神
科医ヴィクトールフランクルは、絶望的状況下で、仲間の心が破綻しないように、夕日や草花など、1日の出来事で感動したことや美しいと感じた些細なことを密かに話合う時を持ち続けた。
しかし、フランクルは、ドイツの降伏で解放された時に両親と妻が収容所で既に死んでいたことを知らされる。その後、収容所での人間の行動を検証して多くの書籍を残し、「与えられた運命」に対して、どのように生きるかによって、その人の真価が決まる、と述べている。

アウシュビッツでは、もう一つの奇跡が起きている。
脱 走のみせしめに、10人に飢え死の刑罰が言い渡され、一人が命乞いをした時に、身代りを名乗り出たコルベ神父である。 餓死刑は、苦しむ人が壁をかきむ しった跡が残るような残酷なものだが、神父は悠然とした態度で苦難に耐え、それに倣った他の9人も、最後まで、祈りを捧げ、讃美歌を歌って平静な心を保 ち、ナチスを驚かせたという記録が残っている。

(続く)

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