コラム

3.「生きることの本質」4回連載 (第3回)

2012年09月28日

3私にとっての教会、生き物
①教会の存在
私が、50才以後の人生を乗り越えてこられたのは、教会を知って、通う内に心がやすらぎ、「自分さえよければいい」という、それまでの生き方から少し変わることができたお蔭だと思う。

あ る日の教会学校では、映画「汚れなき悪戯」が題材で、スペインの片田舎で、戦争で破壊された修道院を再建する修道士たちの許に捨てられた赤ちゃんがマルセ リーノと名付けられて賢い少年に成長する中で、農作業中の修道士が村人から「敵が攻めてきたら畑が荒らされ、収穫できず、殺されるかも知れないのに、何故 そんなに懸命に仕事をするのか」と訊かれた時、「明日、どうなろうと、今日1日を大切にして生きたい」と答える場面を話されたが、まだ見ていないその映画 の情景が鮮明に浮かび、「自分も、少しでも、そのように生きたい」と強く思った。


②動物にも心がある
3・11の津波の凄まじさは思わず息をのむほどで、亡くなった方、それを助けられなかった人の無念はどれほどだっただろうか。 津波の場面を見るたびにそのことを考えてしまう。
最近、ふと、津波に遭った動物はどうしたろうか。原発の放射能を浴びた鳥や昆虫もいただろう。その影響で苦しんでいるかも知れない、と考えるようになった。
そ のキッカケは「ダンゴムシに心があるのか」という本で、学者として様々な実験と考察を繰返した上で出された「ダンゴムシには心がある」という結論に、本当 だろうかと思い、家の周囲に沢山いるダンゴムシの、著者が心があるとする根拠としての行動を何度も観察している内に、彼らに「心」があるというのは本当だ ろう、と思えるようになった。 それは、衝撃だった。
そして、ダンゴムシに心があるなら、哺乳類、爬虫類、昆虫はもとより、ミミズにも心があるのではないか、と思っている。 

昨 年秋、庭にカマキリの雄と雌が現れるようになったが、ある寒い日から姿が見えなくなり、少し気になって探している内に、朝顔のネットに泡状の卵(卵鞘)が 産みつけられていたのを見た時に、実に唐突に、30年前の鮮烈な光景を思い出した。それは、カマキリの雌が交尾直後に、前脚の鎌の一振りで雄の頸を刎ね て、まだ生きている頭と胴体を食べてしまった一部始終である。
あの時は、雌カマキリを、なんて酷い奴だと思ったが、今はその光景が納得できる。
「本能」というより、あの雄カマキリに心があったから、自ら命を託したのではないか、今度の雄も、やはり、子孫のために雌に命を預けたに違いない、と確信した。


③魚も痛みを感じている
「魚は痛みを感じるか」という本を読んだ時は、思わず、「アッ」と声が出かかった。
私は小さい時から釣りや海に潜って魚を突くことが好きで、夏休みは毎日海に通っていた。
仕事で魚を網に追い込んで大量に殺すことに何の迷いも持たなかったが、あの魚の1尾、1尾が、加えられた危害に痛みを感じ、怖れをも感じているという事実は「ダンゴムシ」以上の衝撃だった。
以来、養殖魚は海を知らずに生簀で一生を終えるが、それでは可哀そうではないか・・・とか、
海の活力を取り戻し、魚介類は海で自由に生きた後に苦しまない方法で獲り、感謝して食べるのが、モノ言わぬ魚たちへの礼儀ではないか、などと考えるようになった。

(続く)

カテゴリ:生きることの本質